2015年6月3日水曜日

十八史略(65)-伍子胥と呉越戦争(26)

 呉に攻め込んでの戦いは、水戦が主になるだろう。それを予想して、越では水軍の訓練に力を入れていた。4万の将士に、水泳の名手二千を配し、親衛軍と幕僚6千、兵站経理などを司る官員一千。これが越の討呉軍であった。

国を空っぽにしている呉が、この越の精兵を支え切れるわけはない。

「なに越兵だと?まさか」

少数の留守部隊も、越兵侵攻の知らせを聞いて、しばらく半信半疑であった。

范蠡の指導した「恭順作戦」がみごとに成功したともいえる。勾践のうやうやしさは、とても見せかけとは思えなかった。

それを見破りうる唯一の人材伍子胥(ごししょ)は、すでにこの世の人ではなかった。

周の敬王38年(前482)の6月に、越軍は呉に攻め込んだ。乙酉の日に、越兵5千が呉の留守部隊を、呉都の前方で撃滅した。呉の太子の友は捕虜となった。丁亥の日には、越兵が呉都に入った。

勾践以下越の大軍は、呉の東門から入城した。伍子胥が死ぬ直前、わが目玉をくり抜いて、呉のみやこの東門にのせてくれ。越兵が攻めこんで、呉を滅ぼすのをこの目で見物してやろうぞ!と叫んだあの東門である。

揚子江に投げ込まれたので、伍子胥の目玉はそこにはない。呉の滅亡はもうすこし先になる。しかし、大勢は伍子胥が予想している方向にうごきつつあった。

 

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