2015年6月2日火曜日

十八史略(64)-伍子胥と呉越戦争(25)

越王勾践
 伍子胥亡きあと、もはや諌言の臣はいない。

子胥が死んで3年たった。

越王勾践は范蠡を呼び、「子胥亡きあと、呉には人材はいない。そろそろ兵をむけようか?」

と訊ねた。

「もうしばらくお待ちなさいませ。いまの呉は、たいへんな速度で、国力を消耗させております。遠からず好機が来るでしょう」

と、范蠡は答えた。

独り立ちおぼつかないわと死ぬ前に伍子胥がそう言ったと聞き、呉王夫差は発奮した。夫差は覇者になることに熱中した。

一種の道楽である。呉国のためではない。死んだ伍子胥にたいする意地もあった。

伍子胥が息子を託した斉の大臣鮑氏は、主君の悼公と折合いが悪く、 いつか誅殺されそうだ、それなら先手をうってやろうと、悼公を殺してしまった。

「不忠の臣である。天に代わって伐つ」

呉王夫差は礼儀に従って門外で3日つづけて哀悼の哭泣をおこなったのち、斉にむかって攻め込んだ。

斉軍は善戦して、呉軍を撃退した。

3年後、夫差は中原のまっただ中の黄池で、中原の諸侯と会盟した。この中国首長会議の議長を勤めた者が、すなわち覇者になる。

呉の始祖泰伯は、もともと周王室では長男であった。会盟の長は当然呉の当主でなければならない。

夫差はそう主張した。

これにたいして、晋の定公は、呉は子爵にすぎないが、晋は伯爵である。会盟の長は晋のあるじのほかはないと、譲らない。

実力――軍事力がものをいうのである。このため、夫差はほとんど全国の精兵を率いて北上していた。

「現在、呉は太子が留守を預かっておりますが、老人と女子供しかおりません。どうやら会稽の恥を雪ぐ時機が参ったようでございますな」

と、范蠡は越王勾践に言った。

「おう、長く待ったぞ。すぐに動員令を」

勾践は目をかがやかせた。

 

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