2015年5月9日土曜日

十八史略(40) 伍子胥と呉越戦争(1)

 
  ブログは、休んでいましたが、再開したいと思います。読んでいただければ幸甚に思います。
  皆様のご多幸をお祈りいたします。

  さて、斉の桓公や晋の文公などの覇者が出た春秋時代は華やかであったが、最後は呉越の抗争で幕を閉じた。呉越戦争は、王たちの戦争というよりは、その下の名臣を中心に動いた。越の名臣は、児島高徳の十字の詩で有名な范蠡であり、呉の名臣は伍子胥であった。伍子胥は死んで怨霊となったが、生きているうちから怨念の塊のような人物であった。

伍家は楚でも名前の聞こえた名門であった。伍子胥の父は伍奢といった。

ときの楚のあるじは、平王であり、即位して一年しか経っていなかった。平王の太子は建であり、伍奢はその太傳であった。太傳とは太子の教育を任せられた大役であり、その下が少傳で、費無忌が務めたが、かれはあまり評判のいい男でなかった。

 太子の建がそれ相応の年頃であったために平王は、嫁をとってやろうと少傳の費無忌を秦に派遣した。費無忌が秦に行き、建の花嫁となるべき王女に会うと、これが絶世の美女であった。しかも平王好みの美女であった。ここで悪智慧の費無忌は考えた。平王は即位したばかりで、これから何十年続くか分らない。太子の建が即位するまでには、まだまだ先が長い。太子に仕えるよりは、王の側近になるほうが、はるかに長く楽しいであろう。この機会に王の側近になろうと考えた。

 費無忌は、とるものも取り合えず、帰国し、平王に報告した。

「聞きしに勝る美女でございました」

平王が大いに関心をしめした。

「王がこの女を後宮に迎えられて、太子には別の娘を迎えられてはいかがでしょう」

女好きなことにかけては、人後に落ちない平王は、聞きしに勝る美女と聞いて、この話に乗った。

そういうわけで、秦の皇女は太子の建ではなく、父王の後宮に入ることになった。

こうして、費無忌は美女を取り持った手柄で宿願の平王の側近になった。
 
 
 

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