2015年5月18日月曜日

十八史略(49)-伍子胥と呉越戦争(10)

専諸
 伍子胥は、城築が終わったのち、光に願い出た。

「城造りで少し疲れました。しばらく休みをいただきたいと思います」

「わしを見限るのか」

「いえ、そうではありません。わたしの代わりに、いまの公子にもっと役に立つ人間を推挙したいと思います」

「ほう、何者じゃ」

「専諸(せんしょ)と申します。剣の達人です。それにすばらしい胆力をもっております。かれほど自分の命を軽く扱う人間は見たことがありません。是非、おそばで使ってください」

「そうか。分った。そなたは、大きな城を築くときまで、休養をとっておれ」

伍子胥は、あるじの許しを得て、田舎に籠もり、悠々自適、晴耕雨読の生活に入った。

楚の平王への復讐は、光が呉の王になるまでは、どうしようもない。光のクーデターには、よそ者の伍子胥は役に立たなかった。それまで眠ることにした。

 クーデターの引き金になるのは、専諸のような男であった。

 呉王僚の11年(紀元前516年)にいくら憎んでも憎みきれない楚の平王が死んだ。

伍子胥はしばらく起き上がれなかった。この悔しさを分かち合えるものも回りにいなかった。

 父と兄を殺した楚の平王への復讐こそが、生きがいであった。その復讐を果たさぬ前に相手は、死んでしまった。

(楚こそ、オレの仇だ)と自分に言い聞かせた。

伍子胥は、目的を失いかけたが、気を取り直した。

呉王の僚は平王の死を利用しようとした。楚の平王のあと太子の軫(しん)があとを継いだ。以前に話したが、太子建のために秦から公女を迎えようとしたが、これがあまりに美しかったので、平王の妃とした。これを画策したのが費無忌(ひむき)であった。この公女が産んだ子が軫である。軫は楚の昭王となった。

楚国の人心は動揺し、この乱れのもとを作ったのは、費無忌であったので、これを殺さねばならぬと国人は捜した。危険を感じた費無忌は、営営と貯えた家財を馬車に積み、楚を逃げ出そうとしたところを捕まり殺されてしまった。平王に続き費無忌までもが死んでしまった。

――これは、絶好の機会と、呉王僚は出兵した。

戦上手の楚は、これを迎え撃つふりをして、主力を迂回させ、呉軍の退路を断った。楚に進軍した呉軍は退路を断たれたために楚領内で膠着状態に陥った。

――これぞ天の与えた好機ぞ。

と、公子の光は思った。

――本来、自分が持つべき王位を取り返す好機である。都には、兵は少ない。楚から急に戻ることはできない。

さて、どのようにしてクーデターを起こすか?

伍子胥がおいていった専諸を呼んだ。

「どうすればよい?」

「今こそ、王を殺すべきときですな。楚に行った兵はすぐには戻れません」

光の望む答えが返ってきた。

専諸のことは、司馬遷の『史記』の刺客列伝の中にもある。

光は武装兵を地下室に潜ませた。そして、王をわが邸に招待した。戦線が膠着しており、これを慰めるためとした。呉王も警戒しながらも喜んで招きに応じた。

それでも呉王は用心しており、沿道にも警備兵を並べ、光の邸に入るときも、身内や腹心の部下に守らせた。

 専諸は、焼魚を盆にのせて、王の前にまかり出た。

 この時代は、王の前に出る者は、寸鉄も身に帯びることはできなかった。信任の厚い近衛兵だけが例外であった。

 専諸は焼魚の腹の中に匕首をのませて王の前に出たのである。

 焼魚を献上するふりをして、魚の腹から匕首を取り出し、間髪をいれず、王の心臓をまっすぐに衝いたのである。

 呉王僚は即死であった。

 専諸は期待に背かなかった。

 むろん、生還は期していない。

 王の心臓を衝き、血が噴流する中で、近衛兵の剣がかれの体をえぐっていた。

専諸もまた即死であった。
公子光はすばやく地下室の兵に突撃を命じ、王の側近を斬り殺した。あっけないクーデターであった。

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