2014年9月25日木曜日

「十八史略(35)―驪姫と重耳(11)」

 晋の恵公が病床についたことを知ると太子の圉は、秘かに秦を脱出した。恵公には、ほかに何人もの子がいた。国主が死んだときに、その国にいない子は即位については、極めて不利といえる。しかも圉の母は、今はない梁の国の公女であった。したがって、圉は母の実家を頼ることはできない。

 幸い圉は父の臨終に間に合い、即位することができた。晋の懐公であった。かれの地位は、父の恵公と同じように不安定であった。

 秦の穆公は、断りもせずに秦から出奔した圉に腹を立てていた。

 「親が親なら、子も子だ」
 
 この小癪な小倅に対し、目にものをみせてくれる方法を穆公は知っていた。

 穆公は亡命中の重耳に兵を貸した。
 
 かくして、重耳は19年ぶりに帰国し、懐公を追って、位に即いた。これが、覇者第二号の晋の文公であった。若い懐公は、高梁へ逃げたが、そこで殺された。

最後の勝利の栄冠は「逃げの重耳」の上に輝いた。

 重耳はそれまでにも何度も帰国する機会はあったが、部下たちの意見を聞いて帰国を思いとどまった。また、夷吾が即位しても何とも思わなかった。夷吾は重耳のことが気になってたまらず、即位して7年目に勃鞮ら、腕の立つ剣士を送って暗殺しようとした。

重耳はそのことを知ると住み慣れた狄の国から逃げ出した。

このとき、狄で娶った妻に
「25年待ってくれ。25年経っても帰らなければ、再婚してもいい」と言った。

「25年???」と判断がつかなかったが、しばらくして吹き出した。

「25年も経てば、家の墓の柏も大きくなっているでしょう。ともかく、お待ちします」
と、承諾してくれた。

 

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