2014年8月14日木曜日

「十八史略(9)―妲己(だっき)⑤」

呂尚
 そうしているうちに周の文王が亡くなった。周では憂いに閉ざされた日が続いたが、民から「暴虐の紂王」を討つべしという声が上がり、文王のあとに王になった武王とその弟の周公は、紂王討伐軍を挙げた。その一行が周都を出ようとするときに伯夷と叔斉の兄弟がこの軍隊の行進に出会った。伯夷と叔斉は、左右からとびかかって武王の轡を引いた。

「父死して葬らず、ここに干矛に及ぶ。孝というべけんや。臣を以て君を弑す。仁というべけんや」と言って武王を諌めた。

武王の家来たちは、ふたりをつかまえて、殺そうとしたが、そのときに

「待てえ!斬ってはならぬ。その者たちは義人であるぞ」と一喝して止めるひとがいた。

これが、軍師の太公望だった。文王と太公望の出会いは、太公望が貧乏で年もとり、渭水で魚釣りをしているところへ、文王が通りかかった。文王は狩猟の帰りだったが、朝、占いをしたところ、今日の収穫は猛獣でなく、覇王の補佐をする人物に出会うということであった。

 文王は、「この人であったか」とすぐに軍師として召抱えた。
 
 太公望は、本名は呂尚というのに、なぜ太公望というかといえば、文王の祖父(太公)は、いずれ聖人が周に来て周を盛んにすると予言しており、その太公が待ち望んだ人物ということで、太公望といわれるようになった。後世、太公望は釣り師の意味に使われている。

 この時、武王は軍を孟津に進め、諸侯800人と会したが、武王は太公望に

「殷を倒して、周の天下にするに成功の勝算はどの程度であろうか」と聞いたところ、

「十のうち八」と太公望は答えた。

すると、武王は即座に「兵を引く」と命令を下した。

武王は「成功の公算は高いがそれでも二割の失敗の危険性がある。紂王の暴虐がこのまま続くと三年以内には、成功の確率は100%になるだろう。それまで待つ」と言った

 

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