ここで、一等大警部に任命されました。明治10年(1877年)の西南戦争では豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍し、熊本県阿蘇郡において被弾し、これが原因で戦死しました。戊辰戦争の仇を西南戦争でとろうとしたのでしょう。享年47歳。墓は大分縣護國神社にあります。
性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていました。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦い後は会津に戻って越後戦線へ出陣しましたが、戦況が不利になると奥羽越列藩同盟諸藩とともに戦線を離れて会津へ帰還し、若年寄、のちに家老に進みました。会津戦争では、8月29日に精鋭約1,000人を率いて城外出撃の指揮官を任じられましたが、出撃前夜に藩主から賜った酒を飲みすぎ、早暁に出撃する予定が遅れて敗北を喫しました(長命寺の戦い)。9月5日の材木町(住吉河原)の戦いでは、汚名挽回とばかりに、少数の兵で新政府軍を破り、鶴ヶ城への糧道を確保しました。戦後は藩主や家老、若年寄とともに東京で謹慎していました。
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