斗南は、不毛に近く、実質上の島流しで、藩士達は、寒さと飢えに耐え、慣れない百姓仕事や、北海道へ漁業の出稼ぎをして、しのぎました。 しかし、何と、翌明治4年7月、廃藩置県となり、斗南はなくなりました。斗南に残る者もいましたが、多くは会津に帰りました。官吏や教員に採用された者は良いのですが、その他は、生活は苦しく、安積の開墾地、北海道(会津町)、アメリカ合衆国(サクラメント)等の新天地で、それぞれの生活を始めました。
明治13年、松平家庭園の御薬園(鶴ヶ城の東)を政府より買い戻し、容保に与えられました。容保は、数年間、家族と伴に、御薬園に住みましたが、庭園管理が大変なため、これを市に寄付し、東京・大久保に戻りました。
明治政府より、子爵を与えられ、東照宮宮司(非常勤)に就き、無言のまま、明治26年、59歳で病没しました。傍らには、孝明天皇から賜った宸翰(親書)がありました。
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