2013年7月27日土曜日

西郷頼母(1)―西田敏行

 万延元年(1860)、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えました。文久2年(1862)、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれないよう辞退を進言しましたが、容保の怒りを買いました。その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いて回っています。ところが、賛同されずにかえって帰国を強いられました。
しかも、家老職まで解任された上に、蟄居までさせられています。


明治元年(1868)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還しました。このとき、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い、新政府への恭順に備えていましたが、新政府側からの容保親子の斬首要求が来て態度を一変しました。やむなく頼母も白河口総督として白河城を攻略し、新政府軍を迎撃しましたが、伊地知正治率いる薩摩兵主体の新政府軍による攻撃を受けて白河城を奪われました(白河口の戦い)。

鶴ヶ城に帰参した頼母は、再び恭順を勧めます。しかし会津藩士の多くは、なおも新政府への徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は、長子・吉十郎のみを伴い城から脱出することとなりました。なお、このときには母や妻子など一族21人は自邸で自刃していました。

 

 

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