2012年10月28日日曜日

原田泰氏の震災復興欺瞞の構図(37)


 前日からの続きです。
「日本には、原子力委員会、原子力安全委員会、原子力安全・保安院と3つも規制機関があるが、どれも役に立たなかった。

原子力委員会は予算2億、原子力安全委員会は7億、原子力安全・保安院は350億程度の予算を持っている。予算を見ると、本当に規制しているとしたら、それは原子力安全・保安院で、それ以外の組織は飾りであることが示唆される。
実際、原子力安全委員会の委員長自ら、福島第一原発の建屋に溜まった高放射線量の汚染処理について、『どのような形ですみやかに実施できるかについて、安全委ではそれだけの知識を持ち合わせていない。まずは事業者(東京電力)が解決策を示すとともに、原子力安全・保安院にしっかりと指導をして頂きたい』と述べたという。

テレビに出ていた原子力の専門家の大学教授は、メルトダウンは起きていないと言っていたが、実は起きていた。東電は、実はうすうす気が付いていたようだ。専門家より、事業者の方が、ずっとわかっているのだ。

本来は、安全を守るためにどうしたら良いのかを首相に勧告する専門集団のトップであるが、実はどうしたらよいか分らない人が原子力安全委員会の責任者だった。当初、会見で説明していた、原子力安全・保安院のスポークスマンも、そもそも、通商政策の専門家で、原子力について素人だ。

情報は規制される側にある
規制する者よりも、規制される者が圧倒的に情報をもっている。
規制は公益のためとされているが、実は、何が公益かはよく分らない。電力料金を無理やり低く規制すれば、電力不足が起こる。これは開発途上国でよく見られる現象だ。すると、電力料金を上げておいた方が、実は、公益にかなうのかもしれない。これは電力会社にとっても都合の良い話である。

電力会社はわずかでも料金を上げてもらえれば、莫大な利益を得られる。規制者は小さな利益しかもっていないが、規制される者は巨大な利害を持っている。天下りを受け入れるなど大したコストではない。とすれば、規制者は規制されるものに捕獲(Capture)され、規制は、規制される者の利益を守るために行われる。規制が、公益のために行われると考えるのはナイーブすぎるという訳だ。
このことを1971年に初めて主張したのは、シカゴ大学のノーベル賞受賞経済学者故ジョージ・スティグラー教授だ。原発を推進する側として取り込まれていたのは、規制者とともに学者やメディアの一部でもあったからだ」

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