2012年5月6日日曜日

佐高信の「原発文化人50人斬り」(15)

 「そしてなぜ、『これからは、原子力こそが国家と電力会社との戦場になる。原子力という戦場での勝敗が電力会社の運命を決める、いや、電力会社の命運だけだはなく、日本の運命を決める』と言うようにまでなったのか。
日本という国、日本人という民族は、左翼に対しては歯止めが利いていて容易に動かないが、右翼が出てくるとあっけなく動く。

木川田のパートナーともいうべき日本原子力産業会議の代表常任理事事だった橋本は、『20世紀の初頭に人類が手中にした三つの文明を、私は、これまで、輝かしい科学技術の成果だと信じていたが、もしかしたら、人類を破滅に追い込む、悪魔の申し子ではないかと思える』と側近に洩らしたりした。
橋本のいう“三つの文明”とは、自動車、飛行機、そして原子力のことだが、原子力開発を推進する立場にありながら、橋本は1973年春の原子力産業会議の年次大会で、『私たちが、原子力の開発に確信が持てるのは、それは現在、原子力に対する強い反対と批判が存在するためです。あるいは、奇異に受け取られるかもしれませんが、この原子力に向けられている批判、非難、反対こそが、私達の努力の、いわば道標になっているといえます』と発言した。
そして、しばしば、『ファウスト的契約』という言葉を口にしたのである。
『われわれ原子力関係者は社会とファウスト契約を結んだ。すなわち、われわれは社会に原子力という豊富なエネルギー源を与え、それと引きかえ、これが制御されないときに、恐るべき災害を招くという潜在的副作用を与えた』と。
『ファウスト的契約』とは、いうまでもなく、ゲーテの『ファウスト』の主人公が、悪魔のメフィストフェレスに魂を売ることを比喩しているわけだが、それが現実のものとなってしまった。

平岩は、『サタカさん、私は勲章を拒否するほど偉くないんです』と弁明した。
蛮勇とは程遠い平岩は、木川田と違って断れなかったのだろう。しかし、それをもらうことによって平岩および東京電力は国に屈したと言わなければならない。
国との緊張感を失い、役所の悪いところと民間企業の悪いところを合体させた役所以上の役所的体質をつくってしまった。

木川田の故郷は福島である。そこに原発をもっていた木川田は何よりも安全第一と考えていた。木川田なら、たとえば高木仁三郎や広瀬隆とじっくり議論したに違いない。ただただ反対を排除するような方策は取らなかっただろうと私は考える。そうした木川田の精神を“秘蔵っ子”と言われた平岩が受け継がなかったところに現在の東電の堕落と傲慢の原因があり、歴史の皮肉がある。

自らを傲慢と気づかぬほどに傲慢になっている東電マンの典型としては、東電副社長から転じて自民党の参院議員となった加納時男が挙げられるだろう。
低線量の放射線は『むしろ健康にいい』とまで言ってのけるだから、まさに、つけるクスリはない。

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