2012年4月23日月曜日

佐高信の「原発文化人50人斬り」(3)

 「弘兼のイラストには、『専務 島耕作』から『石油はこの世からなくなってしまう。はっきりゆうて原発反対なんて言ってる場合じゃないんや』というセリフも引かれている。
堺屋、弘兼、たけしは原発のA級戦犯として挙げられるだろう。戦犯として論告求刑したい。
中曽根康弘渡部恒三与謝野馨の政治家トリオ、班目春樹近藤駿介の専門家コンビ、吉本隆明梅原猛の知識人もどきがA級戦犯である。
作家の幸田真音と経済評論家の勝間和代のおばさんコンビはA級戦犯か。
東京電力の経営陣については「東京電力の歴史と傲慢」で改めて触れるが、現在、監査役となっている元東京大学総長、小宮山宏の重大なる責任も忘れてはなるまい。
“電波芸者”と言われる田原総一郎が資源エネルギー庁と青森県の共催の2010年秋の講演会で、原発の必要性を説き、日本の原発の技術がいかに優れているかを強調して、110万円の講演料を得た事例も、そこに出た青森県議によって報告されている。
『学者たちが居眠りしているから、札束で頬を叩いて目を覚まさせるのだ』
1954年春、中曽根が中心となって原子力予算案が突如提出される。それに抗議した学者たちに中曽根はこう言ったといわれる。
改進党の代議士だった中曽根が要求した“原子力予算”は平和利用研究補助金23500万円とウラニウム資源調査費1500万円の合計25000万円。もちろん、当時のカネである。
当時の日本学術会議会長の矛誠司も、『現在の日本で原子炉をすぐつくるべきだと考えている学者は一人もいない。いきなりカネが出るとは驚いた』という談話を出した。
1955年の保守合同の直後、中曽根が自民党の中に正力派を結成しようとしていたとき、正力は入社5年目のまだ若い政治部の記者を呼んで、こう命じたという。
『今日から毎日、中曽根という代義士に会いたまえ。絶えず情報をとって、このオレに報告するんだ』
中曽根の監視役をやれと言われたわけだが、この記者が、現在の『読売新聞』のドン、渡辺恒雄だった。ミイラ取りがミイラになるように、逆に、これが契機となって、渡辺と中曽根は盟友となる。
1957年に正力は、初代の原子力委員会委員長に就任するが、原子力委員にノーベル賞を受賞した湯川秀樹を引っ張り出したかった。
この正力の意を受けて、中曽根は狡猾極まりない動きをする。
財界からは温厚な経団連会長の石川一郎が候補となっていたが、中曽根はまず石川を口説いた。こうウソをついてである。
『学界ではノーベル賞の湯川さんが承諾してくれました。学界が第一級の人物を出してくれた以上、財界も第一級の人物でないと困ります。となると石川さん以外に考えられません』
この段階では、まだ湯川に打診してはいなかった。石川が承諾するや、中曽根はすぐに茅誠司(のちの東大総長)に会い、「財界では経団連会長の石川さんを送り出すことが決まった。学界からはどうしても湯川さんじゃないと困る。ぜひ、あなたから口を説いてほしい」
中曽根にとっては学者をだますなど朝飯前なのだろう。茅は中曽根のずるさに気づかず、罠にはまって、こんな知恵を授けてしまった。
『私も口説いてみるが、日本学術会議原子力問題委員会長の藤岡由夫君も加えなさい。藤岡君が入れば、湯川君も引き受けやすくなる』
『巨怪伝』には『湯川がこの要請を断わりきれなかったのは、ノーベル賞の翌年、読売新聞との協賛で、読売・湯川奨学金をスタートさせていたせいもあった』と記されている。
1956年、14日、原子力委員長として正力が『5年以内の原子力発電所建設』を打ち上げるや、湯川は不信感を抱き、辞意を固める。
『今日の原子力委員会の初会合で、正力さんは、原子力の自主開発なんてやっているひまはない、輸入した方が手っ取りばやい、という声明を発表した。そんな話なら、われわれが入っている意味はない。明日にでも辞める』と告白して一年後に辞任した。
この湯川を引っ張り出すことに一役買わされた茅の怒りと不信感も死ぬまで消えなかった。
『中曽根が茅さんの家を訪問した時、バラの生け垣を踏みつけにして入ってきたそうです。茅さんはのちのちまで、『人の家のバラを踏みつけやがって』と、怒ってました』
『原子力をくいものにした』正力と中曽根を、佐野眞一は次のように指弾する。
『中曽根という配下を巧みに繰った正力は、まさにバラの花を踏みつけるようにして、学者の良心をふみにじり、原発めがけてまっしぐらに突進していった』
 こうしてみると政治家、政治屋というのは、目的のためには、ひとの心も踏みつけにしてもなんら痛痒を感じないのでしょう。

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