2011年12月31日土曜日

佐野眞一の津波と原発(35)

 福島原発が建設された場所は、海に面した広大な敷地で、人家もなく企業誘致にかっこうの適地でした。

しかし、なかなか適当な企業見当たらず、また、小さな工場の乱立は好ましくないと考えていた折りから「東京電力の原子力発電所は」ということになり、地元をはじめ当時の佐藤知事も乗気になって熱心な誘致運動を展開しました。

かくて地元の喜びと協力の下に原子力発電所が建設され、双葉地方もようやく脚光を浴びるようになってきました。

原発ができて、双葉町の過疎化は止まったといいます。東京電力の関連会社もたくさんできて、双葉町の高卒者は全員就職できるようになりました。若者にも嫁さんが来てくれ、安定した生活ができるようになりました。現在、双葉町の個人所得は県下一を続けています。

スリーマイル島、敦賀などの原発事故のニュースがマスコミをにぎわしたときも、原発は安全だと言い続けていました。

佐野氏は、地元で原発反対運動をつづけてきた浪江町出身の元大熊中学校教論大和田秀文氏に、原発導入期の頃の話を聞くため、避難先の会津のアパートで会いました。

「原発建設で最も力をふるったのは、当時地元選出の代議士で、知事の佐藤善一郎とも深い関わりのあった木村守江です。東電の木川田一隆社長、長者原の塩田の持ち主だった堤康次郎と木村の三人で原発誘致を決めてしまったといいます。他はまったく人を介さず、密談は堤の衆議院議長の部屋でやったという古い話を聞いたことがあります。

堤はあの土地を3万円で買った。当時、私の教師としての給料は3000円から5000円、その1年分で手に入れた土地が、原発の誘致が決まって3億円になった。

後に福島第一原発の五号機、六号機が双葉町に増設されたときも、福島第二原発が富岡町と楢葉町に建設されたときも、同様に地元からまず誘致の声があり、その声に議会が賛同し、県がそれに応え、それを東電がやむなく受け入れるという形になるわけです」

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