2011年12月27日火曜日

佐野眞一の津波と原発(32)

 JCOの臨界事故から12年、東海村でわが国初の原子炉が初めて臨界に達したときから数えれば55年目に、福島第一原発事故が起きました。

元飛行場は昭和23(1948)年頃まで、仙台の財務局の管理となりました。その後、元の地権者の農民たちに払い下げられましたが、元飛行場の約3分の1にあたる99万平方メートルの払い下げを受けたのは、国土計画興業の堤康次郎でした。

当時、地元住民は1反1千円で国から払い下げを受けました。堤さんは塩田事業を始めましたが、大規模な事業でした。塩田事業では、入り江から海水を汲み上げ、濃縮された海水はパイプラインで双葉町の双葉駅前まで送り、そこで精製していました。

その後、塩田事業は行き詰まり、現在の発電所周辺はまた荒れ地に戻りました。

この地方のひとたちは、この地方のことを“海のチベット”と称していました。

堤は3万円で手に入れたこの土地を、結局、東京電力に3億円で売り払いました。堤康次郎所有の土地の買収が終わったのは、昭和39(1964)1127日でした。そのわずか3日後、東電は原子力発電所建設計画を発表しました。実際に建設が始まったのは、昭和41(1966)年度からでした。

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