2011年12月17日土曜日

佐野眞一の津波と原発(23)

 原発建設にともなう国からの潤沢な電源三法交付金は、”福島県のチベット”をたちまち裕福な町にしたのです。

東電製作のDVD「黎明」は、長者原に完成した福島県第一原発の映像にかぶせて、高らかに歌いあげています。

「過去数百年にわたって、この台地は津波、地震を受けたことはない」

正力松太郎は警視庁ナンバースリーの官房主事として、関東大震災下の混乱に乗じた社会主義者の扇動による治安撹乱鎮圧に怪腕をふるいました。

だが、同年1227日に起きた難波大助による摂政宮(後の昭和天皇)狙撃事件の警護責任をとり、将来の栄達が確約されていた警視庁を辞任する事態となりました。

その正力が読売新聞入りするきっかけをつくったのが、内務大臣兼帝都復興院総裁として関東大震災後の東京の都市復興計画をダイナミックに実行して、東日本大震災後、とみに注目が集まっている後藤新平だったことはよく知られています。

後藤は警視庁時代の正力の異能異才ぶりや、関東大震災下における正力の八面六臂の活躍を誰よりも高く評価していたそうです。

読売入りした正力が、奇抜なアイディアで発行部数わずか3万部だった読売新聞を、朝日、毎日と並ぶ大新聞にのしあげたことはあまりにも有名な話です。

佐野氏が正力の事績で最も注目するのは、戦後の昭和30(1955)年、故郷の富山から出馬して衆議院議員に当選した正力が、初代の原子力委員会委員長に就任したことです。

昭和32(1957)918日、茨城県東海村で日本初の原子炉が稼働したとき、その火入れ式に列席したのも、正力でした。

科学知識など毛筋ほどもない正力にかわって、日本の原子力開発、ひいてはわが国の原発導入を大胆に推し進めたのは、正力の“影武者”というべき柴田秀利という男でした。

正力は、柴田の水面下のひそかな活動によって、「わが国テレビの父」という栄誉を手に入れました。その正力が次にねらったのが、「原子力開発の父」という称号でした。

佐野氏は、「アメリカでは、広島や長崎に落とした原子力爆弾と同じものを発電に利用して、どうも成功したらしい。

旧知の橋本清之助から原子力発電の話を聞いた正力が、これにすぐ触手を伸ばしたのは、新しいものなら何でも飛びつく正力の生まれついての性向のためもあったが、原子力はそれ以上に、正力の政治的野心に直結していた」と書いています。

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