2011年12月15日木曜日

佐野眞一の津波と原発(21)

 原発ができたとき反対はなかったのか。そう尋ねると、とんでもない、といった表情で、言下に否定された。

「いや、諸手をあげて賛成だよ。なにしろ稲作しかなくて、貧農ばかりの町だからな。東電からは原発は安全だと説明されてきたし、これ以上安全なものはないと信じてきた。

でも、地震と津波の翌日、一号機が爆発したときは『やっぱり』と思った。裏切られた気持ちだ。それまで、東電は本当によくやってくれたんだ。土地の相続手続きだって、東電にハンコさえ渡せば全部やってくれた。そりゃ、東電さまさまだった。

 ――その津波を見たときに、もしかすると原発事故につながると思いましたか?

 「いや、思わねぇ。原発は最初から大丈夫と思っていた」

 ――福島第一原発ができる前は、あの台地には陸軍の飛行機があったそうですね。

 ――陸軍の飛行機ですから、戦後はなくなりますね。そのあと、どうなったんですか。

 ――康次郎。

 「うん、その人が塩田をやった」

 ――原発ができて、双葉はどんどん豊かになっていったという実感はあったんですか。

 「んだな。働く場ができたからな。原発ができる前は、遠くに出稼ぎに出ねばなんかったからな」

 ――遠くというと?

 「岐阜とか岩手のダム工事だ。水力発電所だな」

 ――1回出稼ぎに行くと、何日くらい帰ってこれないんですか。

 「3カ月くらいだな」

じゃ原発ができてから、そんな遠いところに出稼ぎに行く必要もなくなったわけですね。

 「うん、そうだ。原発にはいろんな関連工場もあるからな。だからどの家も、原発に関係ないなんて人はいないな。誰か言っていたな」

 ”原発銀座”といわれる「濱通り」の貧しさがあらためてわかった。

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