2011年2月22日火曜日

稲葉博一の『忍者烈伝』から

 いわゆる時代小説に入るのでしょうが、なかなかに面白く読みました。“くのいち”などは、出てきません。本格的な忍者小説とでもいいましょうか。

このなかで、忍者の起源について触れておりました。伊賀甲賀はもちろん、北条氏が使った風魔小太郎、真田の草、徳川が使った服部半蔵などなど。もっとも古いのは、聖徳太子が側においた「志能備」が始まりとする説があります。これは、大伴細人のことで、伊賀の出身であるといいます。この志能備という名も聖徳太子がつけたということです。

このほかには、源義経、楠木正成、伊勢義盛、伊賀覚法、甲賀三郎、藤原千方が忍者の祖としてあげられます。また、役小角(役行者)が始祖ともいわれています。役小角は、山伏修験の開祖でもあり、関西に行くとかれの名前はいたるところに出てきます。

伊賀流忍術に限れば、その祖のひとりに「御色多由也」があげられる。これは、初めて聞く名です。この人物は秦の始皇帝の臣であった「徐福」なる人物と同一人物です。かれは、不老長寿の薬を探しに日本に来るわけですが、帰国する際に二人の女性を残しました。この二人が伊賀に移り住んで忍術を伝えたといい、この女性のうちの一人が御色多由也とする説があります。男か女かも、今では定かではありません。

確実なのは、応仁の乱がはじまった年の20年後、長享元(1487)年に歴史の表舞台にかれらがあらわれたということです。足利義尚と六角氏との戦いに伊賀甲賀の忍者が六角氏を助成し、圧倒的に有利であった足利義尚軍を破りました。以後、六角氏は、伊賀甲賀の忍者を大事に保護しました。

しかし、忍者になったひとは、歴史に名を残すこともなく、けっして幸せな晩年を迎えなかったようです。

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