2011年1月18日火曜日

蝦夷と隼人

 いつの時代もそうですが、国というのは、常に拡大思考にあるようです。拡大思考がなくなると、その国は衰退に陥るように思われます。今の日本には、拡大思考がないように思われます。まだ、企業に拡大思考が残っているあいだに再び拡大に向かわねばならないでしょう。

奈良時代も土地や人民をふやしたいという朝廷の欲求は、東北の蝦夷、南九州の隼人に不穏な動きがあれば、ただちに大軍を派遣して鎮圧し、「調庸の民」、つまり朝廷に租税を納める民にくり入れるという方向をとりました。版図の拡大を図ったわけです。

709(和銅2)年春、左大弁巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍、民部大輔佐伯石湯を征越後蝦夷将軍に任じ、東海・東山・北陸諸国の兵士をさずけて蝦夷征討に向かったのは、蝦夷が先に反乱を起こしたからではありませんでした。また、征討の兵は、行く先々で、兵を調達いたしました。平城京には、征討のための兵は、ほとんどいませんでした。

前年の秋、越後の国司が、その北方、まだ蝦夷の住んでいた地に出羽郡を新設し、越後国と同じような統治をしようとしたため、小競り合いが起こったのが原因でした。その程度の騒動でしたので、秋にはもう将軍たちは凱旋しました。そして3年後には、出羽郡に陸奥国の最上・置賜両郡(今日の山形縣の大半)を加え、出羽国を新設しました。

南九州の隼人にたいしては、かねてから太宰府を通じて同化政策をすすめ、ときには僧を送り込んで教化しようとしました。仏教を用いて、蝦夷や隼人をおとなしくさせようとしたのは、前世紀末の持統朝からでした。文武朝の頃には、西南諸島の遠く石垣島の人々にまで調をたてまつらせるほどになっていました。大宝律令の公布された初期のころは、薩摩地方の隼人たちは、しばしば反乱を起こして、西南諸島から帰りがけの朝廷の役人たちを殺したりしました。そのつど、朝廷は太宰府に命じて、軍を発して征討させました。蝦夷は平安の時代になっても、反乱が起こりましたが、隼人は、西の朝廷の大宰府があったために、蝦夷ほどには征圧に時間がかかりませんでした。隼人はその後、平城京での式典に幾何学模様の描かれた盾をもって参加しました。

隼人は、その後、戸籍を作り官吏を常駐させて、唱更国(意味不明)といいましたが、唱更国はその後、まもなく薩摩国と名を改めました。

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