2011年1月4日火曜日

平城遷都1300年物語(10)

遣唐使(6)~阿倍仲麻呂(3)
 753年元旦、宮殿において玄宗皇帝の朝賀儀式が執行されました。ちょうど新羅の使いも入唐していましたが、この儀式における席次をめぐって、日本側は非常に腹を立てました。
日本の席次は西畔(西列)第二の吐蕃(チベット)の次でした。ところが新羅は、東畔(東列)第一の大食国(アッバース朝)の上だったのです。
 堪えきれなくなった副使・大伴古麻呂は、「昔から新羅はずっとわが国に朝貢してきている。しかるに日本がその新羅より下に位置するのはおかしい」と抗議したのです。
 これを耳にした将軍呉懐実は、日本と新羅の位置を入れ替えました。古麻呂の気概によって、日本が面目を保ち得た瞬間でした。
 玄宗皇帝は、遣唐使大使の清河を特進という正二品にあたる地位に任じました。古麻呂も従三品に相当する地位を得ました。これは、阿倍仲麻呂の助力によるものだといわれています。
 仲麻呂は、今回玄宗に帰国の意志を告げました。すでに入唐してから30数年、仲麻呂も初老を過ぎていました。さすがに哀れに思ったのか、ついに玄宗は、仲麻呂の帰国を認めました。
仲麻呂はあくまで静かに受けましたが、心の中では狂喜したに違いありません。
 753年10月、仲麻呂は、藤原清河とともに唐を後にし、途中、鑑真たちと合流して蘇州へ向いました。
日本へ向けて出発する直前に、人々が送別の宴を開いてくれました。このおりに詠んだ歌が、
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
 です。『古今和歌集』にも記載され、百人一首にも載る有名な和歌です。ちょうどその夜、美しい月がのぼり、それを見て故郷の春日山に出る月を想ったのです。
 16日に遣唐使船団は出立したが、風のために進度がバラバラになってしまいました。阿倍仲麻呂と藤原清河を乗せた第一船は、ついに日本の地に到達することはありませんでした。
航海中にすさまじい逆風に遭い、どんどんと南へ流されていき、ついに大陸に戻され、驩州(現在のベトナム北部)に漂着したのです。
 遣唐使一行が上陸してホッとしていると、いきなり現地人が襲いかかってきました。彼らは平然と日本人を殺戮し、船を破壊しました。このとき清河と仲麻呂は、部下にまもられ命からがら逃げのびました。なんと乗員組170人あまりが殺害され、助かったのは清河と仲麻呂らわずか10名程度でした。
一行は苦労して、755年、ようやく長安に戻ることができました。

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