2010年12月13日月曜日

平成遷都1300年物語(6)

遣唐使(2)

そして、その後は、国内制度の整備に励んでいた日本が、再び遣唐使を派遣したのは702年、大使粟田真人以下4隻による大船団でした。その後、717年の遣唐使では阿倍仲麻呂・吉備真備らが渡航、更に733年にも派遣されています。

特に粟田真人を大使に選ぶには、容姿にまで気を遣いました。このために粟田真人は、「容止温和なり」として中国の史書にも褒め称えられ、時の則天武后にも気に入られて名誉職まで授けられています。日本は君子の国であり礼儀の厳粛に行われた国だ、という印象を唐に与えました。他にも、藤原清河、阿倍仲麻呂なども中国の史書にその容姿を誉める文章が残っています。今の大使に外国から誉められるひとがいるでしょうか。人選も非常に大事です。

752年派遣の遣唐使は特に優れていました。この時の大使は藤原清河、副使は大伴古麻呂と吉備真備でした。この遣唐使は無事、唐に到着し、翌753年の正月に長安で行われた朝賀に参加しましたが、この時に新羅との席次の問題に対し副使の古麻呂が厳重に抗議し、玄宗皇帝に席次を新羅の上位に改めさせました。大伴氏は、武人の家柄ですので、それだけの迫力があったのでしょう。吉備真備では、無理だったと思います。当時から、新羅にはこだわりがあったようです。今も続いているのかも分かりません。

そして、この遣唐使は、帰りに鑑真らを載せて帰って来ています。また、藤原清河や阿倍仲麻呂を乗せた第1船は帰路に難破してはるか南方の安南(ベトナム)に漂着してしまい、彼らは帰朝することが出来ず唐で生涯を終えています。なお、759年には藤原清河を迎えるために迎入唐使が派遣されていますが、これも安禄山の反乱によって成功しませんでした。余程、不運だったとしか言いようがありません。

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