2010年12月7日火曜日

平成遷都1300年物語(2)

平城京には、いったいどれくらいの人が住んでいたのでしょうか。

大雑把な数字ですが、十万人程度という説をとる学者が多いようです。現在の奈良市の人口が、約36万人ですが、市域は、当時よりもはるかに広いので、単純な比較になりませんが、平城京の中に住んでいた住人は、今よりも多かったかも分かりません。

住人の頂点に立っていたのが、都の主である天皇です。さらに皇后や皇子、天皇家の血族など、皇族と呼ばれる数十人の人々が存在します。そうした天皇のもとで政治を担当するのが官人(役人)であったわけです。

官人には、位階と呼ばれるランキングがあり、その位に応じて役職が決まるシステムがとられました。官位は、トップの正一位から少初位下まで三十段階に分かれていました。

一般的に五位以上の者を貴族と呼びますが、その数は驚くほど少ないものです。奈良時代の始めには、たった125人しか存在しませんでした。貴族のうち三位以上の人々を「貴」と呼び、四、五は「貴」に通じるという意味で「通貴」と呼んで区別しました。

五位と六位の間の壁は非常に厚く、五位以上になることができるのは、藤原氏や大伴氏、佐伯氏など、特定の上級貴族に限られていました。五位以上の子と三位の孫については、21歳になると、自動的に父祖の位階に応じて一定の位が与えられるという特典がありましたが、一般の人々は、まず位階を獲得する試験があり、それに合格して官人となる必要がありました。

五位に近づくにつれ、難関試験にパスしなければいけないシステムになっており、目標に到達するまでに多くの人が寿命が尽きてしまいました。

六位以下の役人たちは、およそ600人程度だったと考えられ、彼らが二官八省一台五衛府といった中央省庁の実務をとりしきり、あるいは国司として地方を統轄しました。

中下級役人のほかに、位をもたないけれど、役所に出仕して仕事や雑役をになう人々が多数存在し、彼らをあわせると、中央官庁で働く役人は、およそ1万人程度にのぼったのではないかと推測されています。

そのほか、都には、宮中に仕えるため地方豪族から派遣された采女や氏女といった女性、平城宮を警備するため豪族の子弟の中から都に派遣された兵がいました。また、朝廷の雑役に従事するためにやってきた仕丁と呼ぶ地方の農民、都を守るために徴発された衛士と称する農民も多数滞在していました。

勝ち組を貴族、負け組を庶民とすれば、その差は隔絶していました。貴族(五位以上の人々)は日本に125人程度しかおらず、そのトップである正一位太政大臣の年収は、現在の金額にすると6億円超えました。格差は貴族の間でも大きく、正五位は3000万円、正六位は700万円程度、さらに下っ端役人になると、庭に畑をつくって野菜を育てなければ生活がなりたたぬほどだったといいます。それでも貴族や役人はまだましな方で、庶民は悲惨なものでした。成人男性は、租・調・庸のほか、雑徭や出挙などの税が課され、三人に一人が兵役負担をさせられました。このため重税にあえぎ、逃亡する人々が続出していました。万葉集に出て来る優雅な人たちは、一部の恵まれた人たちだったようです。

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