2010年12月6日月曜日

平成遷都1300年物語(1)

 2100年の今年は、710年の平成京遷都からちょうど1300年にあたり、今年平成遷都1300年祭が行われ、無事盛況のうちに終わりました。今回のために作られた大極殿ほかは、そのまま建設されたままとなります。

 この奈良時代は、非常にグローバルな時代でした。飛鳥時代もそうでしたが、大陸や半島からの来日者や帰化人も多かったのです。街中は、唐語、百済語、新羅語、高句麗語、渤海などが話されていたでしょう。遣唐使を派遣して、唐や新羅から最新の文化や技術を導入したことは有名ですが、唐という国は当時、世界で最も繁栄している国でした。インドや西アジアなど世界各国からの使者や留学生が集まり、シルクロードを通じてトルファン盆地やペルシア(現在のイラン)などの文化や者が流れ込んできました。私も新疆ウイグル、青海などにも行きましたが、当時かれらはさらに西から唐に来たのです。飛行機でもけっこう長旅でしたが、当時は馬、駱駝の旅です。気が遠くなるような旅だったと思います。

 こうした世界中の文物と人間を、遣唐使船は大量に日本に持ち帰ってきたのです。毎年、正倉院展で聖武天皇、光明皇后の愛用の品が展示されますが、多くが唐、ペルシャなどから来たものです。新羅使や渤海使などもわが国に来朝し、さかんに国際交流がおこなわれました。そして、天平文化が開花したのです。

 そのような文化的なものだけではなく、病の多くも海外からもたらされました。とくに天然痘の致死率は、高く、737年には、天然痘のために政権が交代するという信じられない実態が起こっています。権力者の藤原四兄弟ら太政官の議政官、いまでいえば内閣の閣僚たちがほとんど病死してしまったのです。

 これから平成京の話しを書いてゆきましょう。

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