2010年11月9日火曜日

小村寿太郎の『凛とした姿勢』(1)

 これも吉村昭氏の『白い道』に載っていたものです。
吉村氏の父は、明治24(1891)年生まれで、夕食後には、若い頃、見聞したことをよく口にしていたそうです。その話の中に、日露戦争の講和条約が結ばれた後に起こった日比谷騒擾事件があったといいます。

 外相小村寿太郎が全権となってアメリカのポーツマスに赴き、ロシア側全権のウイッテと講和条約を締結しましたが、その内容に憤激した群衆が、東京のすべての交番を焼き払い、各所に押しかけて放火、投石をしました。戦争が連戦連勝であったのに、小村がロシア側に大譲歩をし屈辱外交をおこなった、という非難の声が一斉に起こったというのです。
吉村氏は、日本海海戦を素材にした小説を書き、その折、講和条約のことも調べたのでが、その条約が決して屈辱的なものではなく、妥当なものであるのを知ったと書いています。

 吉村氏は、「3年前、小村の生地である宮崎県日南市に行った時、小村の着ていたフロックコートを眼にし、一瞬、呆然とした。かれの身長が四尺七寸(1・42メートル)ということは知っていたが、そのフロックコートは、七・五・三の祝いに男児の着るような小さいものであった」と書いています。目に浮かびます。しかし、こんなに小さいとは、思っていませんでした。今では、小学生並みの背の高さです。凛とした気迫があったのでしょう。多分、ロシア語は話せなかったと思いますので、通訳を介しての交渉であったのでしょうが、言霊がウイッテを襲ったのでしょう。今の政治家を見ていますと、どうせ通訳が訳すと思ってか、言葉に魂が乗っていない発言が多いように思います。(明日に続く)

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