2010年11月6日土曜日

奈良奉行の川路聖謨と奈良(2)

 川路聖謨は有能でしたので、天保改革を担当した老中水野忠邦に重用されました。しかし、その後、奈良奉行に左遷されました。これが、川路聖謨と奈良の出会いです。川路は、妻子や養父母と、江戸から15日かけて、で奈良にやってきました。江戸を離れたがらない実母を残してきたため、頻繁に奈良の様子を江戸に書き送っており、それが往時の奈良の様子を今に残す貴重な資料になって残っています。川路は、幕末の弘化3(1846)年より嘉永4(1851)年までの約6年間、奈良奉行を勤めました。

 奈良は江戸とは何事も異なっており、川路も、最初は戸惑っていましたが、よく奈良を歩き回り、奈良の良い面にも触れて、その奥深さに心惹かれていったようです。

 川路は、罪人が解き放たれ後、働き口もなく、結局、再犯してしまうことに気づき、自らお金を出し、金持ちからも出金を募り、基金を創設してその利子で貧民救済にあたった結果、再犯が減ったといいます。しかも、自らの出金にあたって、名前は出さず、匿名にしました。なかなか出来ません。

 また、やはり自らお金を供出し、一般にも募って、興福寺や東大寺をはじめとして佐保川の堤まで、奈良にたくさんの桜と楓の木を植えました。今の桜の名所となった奈良公園の元を作りました。猿沢の池から大階段(52段)を昇りきった左側に「植桜楓之碑」があります。よく見ないと見過ごします。請われて川路が書いた漢文が刻まれています。

 川路が奈良を離れる際、多くの人が餞別を持って来ましたが、それらは一切受け取らず、かけてあった熨斗だけをもらったという話もあります。何とも潔癖な人でした。

 そんな川路はその後、安政の大獄に連座して左遷、蟄居を命じられました。文久3(1863)年、再び外国奉行に起用されました。長崎に来航したロシア使節プチャーチンとの交渉をまかされ、翌年には、日露和親条約を調印するなど外交に力を尽くしました。そのほか、大坂東町奉行、公事方勘定奉行、勘定奉行格外国奉行等を歴任し、ペリー来航に際しては開国を主張しました。将軍継嗣問題による幕府の扱いに不満を持ち辞職し、隠居しています。その後は、中風で半身不随に陥るなど、晩年は不遇でしたが、1868年、西郷隆盛と勝海舟による「江戸城開城」のことを聞き、幕臣としてこれに抗議するためか、割腹し銃で喉を撃って壮絶な最期を遂げました。享年67歳でした。奈良にとっては、功績のあった奉行でした。

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