2010年11月18日木曜日

吉村昭氏と宇和島(3)

 宇和島藩および伊達宗城について、少し触れてみましょう。
慶長19(1614)年に伊達政宗の庶長子、秀宗が10万石で入封し、それ以降は伊達氏が廃藩置県まで治めました。仙台藩の支藩ではなく新規に国主格大名として取り立てられ、秀宗入府のときの家臣団は、米沢時代の「伊達五十七騎」の中から選ばれたものだったために、仙台藩とは直接関係がない成立でしたが、仙台藩は支藩と主張し、特に秀宗の時代は揉め事が絶えませんでした。

 8代・宗城は最も有名な藩主で、大身旗本・山口直勝の次男に生まれましたが、祖父山口直清が伊達村候の次男だったことから養子に迎えられ、前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、更に西欧化を推し進めて富国強兵政策をとりました。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手しました。伊達宗城は、阿部正弘死後、安政5(1858)年に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立しました。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯と水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していました。一方、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福を推しました。井伊は大老の地位を利用し強権を発動し、慶福を14代将軍・家茂としました。この結果、一橋派は排除されました。いわゆる安政の大獄です。これにより宗城は春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎を命じられました。

 謹慎を許されて後は、再び幕政に関与するようになり、文久2(1862)年には生麦事件の賠償金支払いに反対しています。この頃から、島津久光と交友関係を深くし、公武合体を推進しました。文久3(1863)年末には参与会議、慶応3(1867)年には四侯会議に参加し、国政に参与しているが、ともに短期間で崩壊しました。明治維新まで藩政に影響を持ち続け、明治新政府では高官となっています。

 藩主家は明治17(1884)年に宗城の功績を評価され侯爵となり、華族に列せられましたが、仙台の伊達本家は奥羽越列藩同盟に連座して、減封を受けたために伯爵止まりとされましたので、本家を上回ることになりました。

 明治維新以後 は、慶応3(1867)年12月、王政復古の後は新政府の議定(閣僚)に名を連ねました。しかし明治元(1868)年に戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏寄りであったので薩長の行動に抗議して、新政府参謀を辞任しました。

 明治2(1869)年、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けました。明治4(1871)年には欽差全権大臣として清との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられましたが、その年に中央政界より引退しました。

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