2009年11月1日日曜日

司馬遼太郎の作家への転機

 司馬氏が、作家になるきっかけは、3つの時代が考えられるそうです。まず、ひとつは。旧制中学校時代です。司馬氏は、旧制中学校は大阪市の上町台にある上宮学園に入学しました。先生に“ニューヨークという地名の由来”を聞いたそうです。そうすると、その先生は、「ニューヨークに由来も何もあるか。そんなしょうもないことを聞くから勉強が出来んのや」と言われたそうです。司馬少年は、勉強は好きではないが、学校は好きでした。ニューヨークの地名の由来を知りたいと図書館に通いました。それで、分かったことは、現在のニューヨークがあったところは、オランダ領で、ニューアムステルダムと名をつけられていました。ところが、そこがイギリス領になったために当時のイギリス国王が、ヨークといったためにニューヨークとなったことが分かりました。
 司馬少年は、毎日、図書館に通いました。昭和18年の学徒出陣まで通い詰めたそうです。門限が過ぎても本を読んでいたために、図書館の人も「帰れ」とは、言いにくく、一緒に本を読んでいたそうです。そして、司馬氏本人も話していたそうですが、図書館の本を全部読んだそうです。このあたりは、真似ができません。
 司馬氏の調べ方は、日本の歴史を調べる時に、日本史を遡ることはせずに、中国の周辺のひとつの国として、日本の歴史を調べたそうです。自分の目で確かめながら、調べて行きました。司馬少年の中学卒業の時の文集に、「希望は天上(天井かも分かりません)にあり、実行は足下にあり」と書いています。作家としての、素養は、中学の時代に養われたのでしょう。
 そして、次が昭和20年に学徒出陣で戦車隊として、中国から栃木県の佐野に移動になった時です。
 「関東に敵軍が上陸したらどうするか」。
 指令は、
 「すぐに東京に行け」。
 「そうすると、大八車を押した人たちと遭う。そのときは、どうするのか」。
 「戦車で引き殺していけ」。
 この時から、司馬氏は、人間とは、日本人とは、と考えるようになり、以後の柱となったそうです。
 3つ目が、産経新聞の記者時代です。宗教の記者クラブ、京大にあった大学記者クラブの担当でした。することがないので、昼寝ばかりをしていたと司馬氏自身は語っていましたが、当時を知る人は、「福田さん(司馬氏の本名)は、いつも一杯、本をカバンに詰めて行っておられた」と語っています。当時は、のんびりしていて、司馬氏は、西本願寺の飛雲閣や青蓮院の畳の上で、横になって本を読んでいました。
 そして、湯川秀樹、小川環樹などの京都学派と呼ばれるひとたちと付き合いました。このひとたちも、司馬氏とは、年齢が離れているにもかかわらず、同じレベルで付き合ってくれました。そうこうするうちに、2日間で書いた「ペルシャの現実史」が“講談倶楽部”に見事入賞しました。そのあと、大阪本社に戻りました。今東光が中外日報に連載していましたが、「あとを書け」ということで、引き受けて、「梟の城」を書き、これが「直木賞」をとりました。ここからが、作家人生の始まりです。
 司馬氏は、いつも「公と私」を考えていました。坂本竜馬、土方歳三、高田屋嘉兵衛も「公と私」のバランスがよかったそうです。江戸時代も、「公と私」のバランスが公然とあり、日露戦争までは、バランスがとれていました。しかし、その後は、「私」ばかりが大きくなりました。人心が変わってしまって、歪みも大きくなりました。自分のことばかりを考えていたのでは、世はよくなりません。司馬氏は、「一個の個人として、考えるべき時代になった。江戸時代に生きた人々を見る必要がある。誰かが、何かをやってくれると思っていると、ますます下降する」と言っています。

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