2009年8月8日土曜日

箸墓古墳

 にわかに箸墓古墳は、邪馬台国の女王の卑弥呼の墓と騒がれています。しかし、考古学学会は、この話題には、付き合いきれない、これ以上エネルギーを投じても結論が出ないと諦観を決め込んでいる感があります。どうやら、この騒ぎを起こしているのは、以前からのスターの人たちではなく、あとから参入した人たちのようです。わたしは、今回、“箸墓は卑弥呼の墓”といった国立歴史民族博物館の存在を知りませんでした。古代遺跡の少ない千葉県に国立歴史民族博物館を建築するなどは、きな臭さを感じます。魏志倭人伝には、卑弥呼の墓は、径百歩とあります。円墳です。箸墓古墳は、全長が280mもある前方後円墳で、周囲を濠でめぐらしています。このようなことは、倭人伝には書かれていません。したがって、箸墓を卑弥呼の墓と比定することは、無理があります。いくら遡っても300年までと言われておりました。したがって、卑弥呼の墓というよりは、次の女王である壱(台)与の墓の説の方が分があるように思います。また、纒向古墳群を卑弥呼の家来の古墳としていますが、これも時代が逆です。纒向古墳群は、前方後円墳の前の帆立貝式の古墳です。こちらの方が、古いのです。
 これまで箸墓は、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされていました。倭迹迹日百襲姫は、崇神天皇の祖父孝元天皇の妹でしたが、三輪山の神である大物主神の妻となったとする神婚伝承があります。しかし、この神は夜にばかり通ってきて姿を見せないので姫は、「まだお姿を見たことがありません、どうか夜の明けるまで居て美しいお姿を見せて下さい」とお願いしました。大物主神は、「明朝お前の櫛箱の中に入っていよう」と答えました。姫は朝、櫛箱をあけると中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだしました。すると、大物主神は人の姿に戻り、「よくも私に恥をかかせたな」といって三輪山に帰ってしまいました。姫はたいへん後悔し、箸で陰処を突いて死にました。人々はその墓を名付けて箸墓と呼んだとされています。この神話も突拍子もない神話です。日本古代草創期の話とは、すこし違う感じがします。
 この写真は、わたしが撮った箸墓の写真です。今は、この橋桁のようなものもなくなっています。以前は、この写真のように撮る対象にもなりました。ここに埋葬されている姫は、どれほど美人だったのだろうと勝手に想像したものです。それが、単なる濠になってしまいました。今は、イメージが湧きません。
日本の古代史は、結局は、宮内庁が管理する御陵を発掘しないと、結論に近いものは出てこないのでしょう。御陵の中には、銘の入ったものが、発見されるかも分かりません。宮内庁のみが、まだ戦前の中にいるようです。

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